20121028

軍 艦 島

  
 
長崎、三菱高島炭鉱端島鉱業所。 
その見た目から 「軍艦島」と呼ばれているけれど島を一周ぐるりと回れば軍艦に見える角度は寧ろ少ない。 でもこの瞬間、この角度、そして偶然に現れた雲まで味方をしてくれて本当に煙を吐いて進む軍艦にみえた。



  
  
 
  
  
  

 
  
  
  
 


    
   
 
正面に見えるのは今から100年近く前の1916年位建てられた日本最古のRC造の集合住宅である。 
1960年には人口が5,000人を超え、人口密度は83,600/km2と世界一になった。  数十もある集合住宅棟は複雑な通路で繋がり、売店や保育園、学校、警察派出所、郵便局、映画館、プール、更には屋上には畑や水をはる田んぼまであって、これは日本最初の屋上緑化であった。
 

 
1974 年炭鉱の閉山後のこの島の建物の崩壊は殆どは人為的なものではない。 台風の通り道にもなっているこの場所は風雨の影響が凄く大きくて台風の時には南西側の防波堤は10m以上あるにもかかわらず飛沫は150mを飛び越えて島の逆側にまで到達するほどだという。
実際、2009年に観光客の上陸が認められて設置された遊歩道の一部が今年の台風で既に崩壊していた。


  

 
ところで軍艦島と呼ばれるのは外観が三菱長崎造船所で建造された 「戦艦土佐」 に似ていたことからだ説明されていた。 確かに見た目は軍艦に似ているが ”土佐”と限定するからには相当似ているからだと思いきやどうも違う。  Wikipediaによると ”戦艦土佐はワシントン海軍軍縮条約により廃艦となり、19227未完成のまま海軍に引き渡された。その後船体は標的艦として使用されることが決定し、1925年館山沖で沈められた。” とあって写真を見れば上部構造物が低い船体で軍艦島とは似ても似つかない。 
 
 
 
更には、最初にこの島を軍艦になぞらえたのは大正5年の大阪朝日新聞だという。 この年にはまだ戦艦土佐は起工すらしていない。  ならば何故 「戦艦土佐」 の名前が出てきたのか?  
やはりその見た目よりも島の運命をこの戦艦の悲運になぞらえられたからだろうか? 



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